昭和50年05月01日 朝の御理解



 御理解 第99節
 「無学で人が助けられぬと云う事はない。学問はあっても真が無ければ人は助からぬ。学者が身を食うと云う事がある。学問があっても難儀をしておる者がある。この方は無学でも皆おかげを受けておる。」

 この方は無学でも、皆おかげを受けておる。勿論あのう教祖金光大神の事で御座います。何でかと云うと金光大神の教へを頂いて、おかげを頂いていると云う事は、何を出来ないというても、云うなら無学でも矢張り自分が助かり、人が助かる事の出来れる道だと云う事であります。ですから何か私の事をでも矢張りそう云う事になります。私でもそれこそ一介の商人、それがどういう神様の御都合であったか解りませんけれども、お道の教師にお取り立て頂いて、矢張り人が助かっておると云う事。
 自分が助かると云う事から、そして人が助かると云う事にまでなって行かなければならない。でないと次のこの御理解百節の所になって来ないのです。目出た目出たの若松様よ、枝も栄える葉も繁ると云うではないか、金光大神は家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃと。成程こういう道を歩いて行くなら繁盛するに違いはないと、確信の出来る様な生活をさして頂き、同時にまた去年よりも今年と云う様に、そういう繁盛の道が開けて来るおかげを受けて行く為ににもね、矢張り私はこの九十九節。
 金光大神の云われる助かり方、又はその御自身の助かられ方が同時に人も、此の方は無学でも人が助かっておると仰る様な助かりに継ながって行かなければです、なら合楽示現活動的な事になって来ないのである。昨夜月末御礼会で御座いましたが最後に此処の秋永先生がお話ししとりましたが、つい最近先生の心境は素晴らしいと思うんですけれども、例えば降るとか照るとかと云う様な事、もう本当にどっちもおかげだと云う事を話しております。是は事実先生は今大変難儀な問題を持っております。
 けれどもそう云う事が話の中にちらっとも出らないですね矢張り、だからそれもおかげと矢張り頂いとるだろうと私は思います。此の頃から私お話を致しましたあの、尾の身という鯨のほんの一部分しかない、もう一番美味しい所。もうそれこそとろける様な味わいの所が、もうほんの僅か。是は鯨捕りの船に乗っておる船員だけしか頂けないと言う程しの、少ない所らしい。
 だから現在、秋永先生はその尾の身の様な信心を頂いとる訳です。ですからこの助かりが所謂、なら自分自身がもう言うならば本当に助かっておると云う事、普通で云うならば本当に廻りちゃ恐ろしか、又言う様な問題が起きてと云わんならん所だけれども、それが云うならば一っつも苦になってないと云う事です。そしてなら是から自分がどう信心を進め、進展して行くか解らないけれども、現在の時点ではこう云う心境だと。
 最近先生が口を開いて話す時には、必ずそんな事を申します。ですからそれはもう本当に、もうそれこそ法悦に浸っていると云う感じです。ですから是は言うならば人の助かる事の出来れる云うならば、段階にもう入ろうとしている信心だと思うですね。所が最後に私申しましたが、その素晴らしい信心が、自分だけが悦に入っておられる事は素晴らしいけれども。是が例えば少しは美味しくはなかっても鯨全体がです。
 もう鯨と言う物は髯であろうが骨であろうが皮であろうが、一切が食べられると云われております。ね、もう捨てる所がないですね。あの大きな動物はですね、もう一切がその食べられるという。だからどういう人でも助けられる、どういう人にでもおかげ頂いて貰えれる内容に、云うなら鯨の住む様なおかげと云う、大きなおかげに進んで行かねばいけない、という風に私は申しましたですけれどね。本当に降れば良かけど、照れば良かけどとも思わないと、もう兎に角有難いおかげ受られんなあと。
 昨日の朝昨日花畑教会の大祭でした。先生が代表でお参りしました。そして「くにか」さんのお国替えの事を頂かれて、おかげ頂かれたなあ、こういう気持ちしか起きらなかったちゅ云うんです、今まであの例えば信者の熱心な方やら、素晴らしい信心が出来とられた方が亡くなられたやら聞くと、あいた是は又何か合楽の一つの節とか、是で御比礼落とす様な事あっちゃならんとか。
 そんな不安がフッとこう出る訳だけどね。もう只聞いたとたんに時おかげ頂かれたなあぁと云う事だけだったと言っとります。そして今日今此処に来てから自分の信心の欠けておる所に気付いたと話しておられましたが、丁度おしまいがけに正義さんがお礼に出て来ました。そん時に今日が告別式ですけれども、仏教で告別式をすると言う事を、何に秋永先生に話した時に、その時に秋永先生が今私しゃれを感じたと云うて話しとりましたが、もう土居の一族の信心の素晴らしいかとにゃ。
 とても私だん叶わんとこう思うたとこう云うのです。もう今迄の私自身ならば、どうした馬鹿じゃかち、こう思うたと云うんです。あれだけの熱心な信心を頂き、あれ程しの金光様、金光様でおかげ頂いておってからです、誰が何と云うても告別式だけは親先生に御祭主して頂いて金光教でするよと、是はもう私なら絶対云うだろうと云う事。所が土居の人達なんか場合はもうそれがスンナリと信心の無い親戚達が云やぁ、あぁそうですかとスーッと入って行っとると云事です、是はもう素晴らしか。
この信心にはかなわん。今まで私が思っておった、もう土居の人達ばっかりは、まあ本当に馬鹿んごたる人達じゃあると。是だけのものを頂きながら、そのそれを表明しないと言う事はなんかも、まあー言うならばある意味だは軽蔑する位な思い方であったのが、素晴らしいと。是は私と同じ考え方でした。私もあのうその前の晩に亡くなられてすぐ繁雄さんがお届けに見えたからそう言われたんですよ。
 そん時に私もそれを感じましたです。もう昨日の朝勇さんが御礼に出て来られて、もう本当に前後の事色々思えば思う程御礼を申し上げる外ないという程しの信心を頂いて居られるんですよ。それでいてあのー家内の兄弟達が皆そういうからあのう仏教で、しかも昨日此処で云われるとか、もう本当にこの際私方には仏壇がない、仏様一人も御座らん。だからもうこげん改式するとに都合の良い事はないから、もうそう思うておりましたけれども、あのー親戚の者からそう言われるからとこう言われるんです。
 だから改めて又お祭をして頂きたい。明日は仏教で告別式をさせて頂きたいと言うて、まあー繁雄さんと同じ様な意味の事を、昨日御礼に出て見えて云われる。それを秋永先生が聞いた途端にです、成程先生の心の状態と言う物が素晴らしく、そのうおかげを頂かれてきようるなあと云う事を、改めて又私は横で聞きながら感じましたですね。全然そのそれこそ泥の様な信心。
 どう云う事を持ってきてもスーッとこう入って行ってしまうと云う感じですね、奇麗な水だから汚い水だからと云うて、ああそげな事はいかんと云うてスッとこう、泥様な信心で受けて行って居ると云う所に、秋永先生が昨日また改めて開眼したと云う。私達の信心には、是が欠けておるなとまぁ思うたと云う事も、まあ含めて昨日お話しとりました。心の開けて行くと云う事は、もう素晴らしい事です限りがない事です。
 同時になら昨日云っとります、降る事であっても照る事であってもどう云う事を今までなら、ハッとする様な事を聞いてもおかげ頂いたなあと云う心が起きて来る。是が私は宗教的助かり方だと思うです。人を人間に育てるのが教育だと、是は一年位前の御理解を本の裏に書いてあったのを昨日一寸見て、改めてそう所じゃないなと思うた事なんですけども。人を人間に育てるのが教育である。
 人間を神の氏子としての自覚に導くのが宗教である人間をね例えば金光様の御信心をね、信者の一人一人にです神の氏子。天地の親神様とこう口では云っとるけれども、本当に神の氏子としての自覚に導いて行くと云う事が金光様の信心だと。だからそこの自覚と云うのが出来なければ、秋永先生の云う様な心の状態と言う物は開けて来ないのです。学問はあってもと言う事は、人を人間に育てると云う事が教育。
 そういう意味においては徹底した行き方を身に着けて行く事が出来るけれども、人を人間に育てると云う事ではなくて、言うならば人間を神の氏子としての自覚。神として育てると云う事。天地の親神様が親であると云う事の自覚に導くのがお道の信心です、ですからもう生きるも死するも結局は親の懐に帰って行くと言うものが生まれて来るのです。だからおかげ受けられんなあと云う事にしかならんのです。
 そこで私は思うんですけれども、なら次の百節の子孫繁盛家繁盛の、道を教えるのじゃと云う様な事でもね、金光大神のそう云う一つの、御自身の助かりと云う事と同時に人も助かると云う程しの所迄おかげを頂いて行かなければ、こういう道は付けてやれないと思うですね。それを私は昨日改めて、合楽ではおかげを受けているなぁと云う、云うなら合楽に御神縁を頂いて、もう合楽一辺倒というかね合楽の親先生任せというか、親先生の信心に帰依すると云う事になったら。
 皆んなこの目出度目出度のおかげと云う事になって来る訳です。もう子孫繁盛の道がはっきり開けて来るのです。それにはなら私が何時も、神の氏子としての自覚と言う事を、なら皆さんに自覚しなければならないと言う意味の事を、ね、お話しをしておるのですから、そこの自覚が出来なければなりません。先ずは言うならば降ってもおかげ、照ってもおかげと、本当な意味においてです、おかげと思えれる信心が先ず身に付かなければならないと云う事になります。
 昨日午後の奉仕の時に、北野の秋山さんがお参りして見えて、まぁ二人でお話した事でした。そりゃもう合楽ちゅう所は、そりゃまぁ有難い事じゃあるとばいと云うてから、昨日はもう新しくお参りさでる方達大変賑いました昨日は。その中に様々な難儀な問題、本当に難儀な様相のお取次させて頂いたんですけれどもね。ある教会におかげを頂いておる方が、もう子供さんが高校に行かれる。先方もやっぱりそうらしいですけれども、三角関係で悩んでおる。それがお取次を頂いてずっと経過を話された。
 それがお取次を頂いてですね、その益々私が聞きよると益々悪い方へなる様に、悪い方へなる様へ導いておられるようです。と言うのはですテレビ・ラジオで人事相談をやっているでしょう。先生が、その人事相談的な事で答えをしておられる訳です。勿論それに祈る事をなさっている事には間違いないです、金光様の先生ですから。それがもう拗れに拗れ、問題が問題になって裁判になって。もう愈々もう兎に角あちらの親戚、こちらの親戚、もうどうにもこうにも出来ない所迄のもう羽目になっている訳なんです。
 そう云う事がどう云う事かと云うとね、御主人がそのう娘さんに朝の御飯の給仕をされよんなさった。それをお給仕した御飯をねお父さんに渡そうとこうなさった時に、何かがあったけん傍らに下ろしなさったげな。それでお父さんが腹掻き出しなさった。ね、どうして手に渡さないか、もうお前のごとあるとは出て行けと云うて、まあ親子喧嘩があって、それをお取次願った所が。
 先生がもう親子の仲でさえそげん冷とうなっとるならば、是は早う「けり」をつけて裁判をして、分かれた方が良かばいと言わしゃったげな。それが元じゃったもうそげん冷とうなった。是はもう本当にどんな例えば事態になっておってもね、そこからの道が開けて来るのが金光教の信心ですよ。だからもうギリギリの所迄行って、しかももう問題が問題、そして私は昨日もうそれこそ聞くも涙、語るも涙ちゅうごたる、そのお話なんですお話しの様相と云うのは。
 その為とうとう子供さん迄出て行かれると云った様な事になった。その上今度は相手の女の方の親戚の方達が押し掛けて来てから、あんたが主婦としてのね、奥さんとしての勤めが出来なかったから、反対に逆ネジ食わせられる様な状態になっとると云う事です。
 そりゃもう本当に馬鹿んごとあるの、もうそりゃある時は辛抱しろ、辛抱しろと御取次を頂くとされたから、もうそげな事でも問題じゃないごと辛抱しとった訳です。だから相手の方の問題はどんどん進展して行った訳です。
 その辛抱しとった事を向こうの方の親戚からから、悪く云われると云う事だそうです。その辺の所を本人から聞くと、本当に聞くも涙語るも涙ちゅうごたる状態なんです。それで私は兎に角もうこの問題はね、もう兎に角そこ迄持ち込どるとならば、裁判でケリが付く訳でしょうけれども、まあどちらにまぁそれこそ赤が勝とうが白が勝とうがです、もう出たとこ勝負であって、どちらになっても良いと云う腹をを、今日は作って行かんのと云う話をさして頂いたんです。
 だから右になろうが左になろうが、此処を有難く頂くのが信心だと云う事を私が話しました。もう本当に安心されたです。それが私感じられたんです。本当にその気になりさえすれば、だから是からの、だから是からの信心、だから是からはその事態が変わって来るだろう。私がお願いさせて頂くから、そしてなら裁判の事はもう負けようが勝とうが問題じゃない、出た所を勝負として、そしてそれを本当に合掌して受ける気になれ。その心が神の気感に適うからおかげになる、と私は申しました。
 どうぞこの様な風になっとりますから勝ちます様に、勝ちます様にというのお願いでは助からんちゅう、もうそこに助かられる模様が見える様でした。そしたらすぐその後に是は北野の深町さんの遠い親戚というか大変懇意な方が同んなじ様な問題でお願いに昨日来ました。それももうこんがらがってもう奥さんなこっちに帰って来ちゃる訳です。それで今こげな風な問題になっとるけん、良ければあんただお参りよるお神様にお尋ねしてくれ、私もお願いに参るけれどもと言う事だったと深町さんが昨日言っています。
 だから、私はその事をお取次さしてもらよったらね、明るいという字をね、明光商事の明を頂きますもん。だから私がね、是は深町さんあのう此処へ出て来とんなさるなら、入るとか出るとかじゃなくてから、もう何か次の切っ掛けが出来るまでじっとしとかんのと、私が申しました。是は絶対日に月におかげ頂くバイ。もう日にちを稼ぎよる内に必ずおかげになるよと、明るくなるよと云うて、私はお取次させて頂きました。
 話を聞くならですね、もうなら深町さんもそう思うとるでしょうけれども、もう是は二になるより他ない、と云う位の所迄行っている訳なんです。そう云う問題、こんがらがった問題であってもですね、神様は放っておけです、明るくなるです。日に月にちゃんと日にちを稼ぎよる内に、又必ず円満になるです。もう此処に人間の幸不幸と云うかね、その別れ道がもう出来る訳です。
 そういうなら私が人事相談的な相談を私が此処で受けて答えるならば、それは別れた方が良いでしょうねと、言うより他にない程しの問題なんです。だから皆さん合楽ではね、そういう意味でのですおかげを日々受けておると云う事なんですよ。それはね我が良かごとしといてからでは是は別ですよ。けれど、お取次を頂いてお願いをして、御神意のままに動いておるならば、必ずおかげの方にしかならんです。
 その話を私が秋山さんにさして頂いたら、秋山さんはそれとは違った意味ですけれどもです、私の方の問題だって、親先生がああ言われるから、こうなって、こうなって今日などは、先生こういうおかげになって来ておる。もうそげんなって来る筈がなか問題がです、こげな風なおかげになって来ておると云うて、秋山さんその事をお届けしとります。もう、この本当に自然の働きに委ね任せると云う事。
 その自然の中にそれに溶け込んで行く事は、自然を本当に生かし現す事が出来ると云う事実をね、皆さんも色んな体験からそれを解っておられるだろうけれども、合楽でお取次ぎを頂からておると云う事はそう云う事だと思うんです皆んな。それこそ無学であるけれども、私の知恵で云うならばそりゃ分れたがよかばいと云いたい所だけれども、知恵ではない私の信心で、私自身が助かっておる。
 私自身が日々体験しておる、その体験と信心をもってお取次さして頂く所にです、そういう信心が段々出来て行く所に、神の氏子としての自覚も段々深まって来る出来て来るでしょうし、目出度目出度と云う様なおかげにも繋って来るし、金光大神の道は成程子孫繁盛家繁盛の道だなぁと云う事が、私は解って来ると思うです。私は昨日本当にあえてその事を申しました夕べ。
 今の金光教ではです只本当に人事相談的なね、あのう答えしか出してはおらないと言う事。昨日宮崎から電話が掛かって来たのもそうでした。先生がわざわざその信者の家に行ってです、あんたとこのお父さんは、もう気違いじゃから精神病院に入れれ、とこう言われる。所が是程おかげを頂いておるとのにどうして入れるですかと。色々問答の末結局まぁ私は家に小屋を建ててからそこに主人を押し込まにゃんでん、私は先生の言う通りにゃせんと言うご返事をしたんですが良かったでしょうか。
 と云うてから電話が掛かって来ました。例えばそういう難儀な問題になら金光様の先生が乗り出して来てです、その問題にそのう相談相手になって下さる事は、その程度にしか出来てない。是は難しい裁判の問題が起こった。そこの先生が弁護士代わりに、色々勉強してから裁判はおかげでさいばんな勝った。けれどもそれだけの事、是はもう人間心、此処で所謂学問がかえって身を食うと云う事は、いうならば少しばかりの医学を研究したり少しばかりの、言うなら法律の勉強したばっかりに。
 信者にもうそれまでのおかげでしか渡されなかったという、是は事実です。その問題を通して、私は昨日その最初に聞くも涙、語るも涙と云った様な話の方にゃ聞いたんですけれども、あんたが今度の裁判の結果をです、どちらになっても有難く受ける行き方で行ったらね、その忌まわしかった、腹のたったその難儀な問題が必ず全部生きて来ると私申しました。あゝ云う事のあったおかげでと、生きて来るんだと。
 只この裁判に勝ったというだけだったら、過去の事はもう煩わしい、忌まわしい事だけにしかならないでしょう。所が金光大神の道は子孫繁盛、家繁盛の道に繋って行く程しなんですから、だからそげな、そこでプッと切れて、人間の見た目ではまあおかげ頂いたの、というごたるおかげではいけないと云う事なんです。それが金光大神の道なんです。そういう御取次を皆さんの場合は受けておられる訳ですから、まあ目先目先のおかげに終始する様な事が、勿論あってはなりませんし。
 又此処に金光大神は成程子孫繁盛家繁盛の道を教えて下さるんだなあ、自分達は今そういう道を歩ませて頂いとるんだなあという、その自信に満ちた生活をさせて頂くおかげを頂いて貰いたいと思うんです。無学です私は無学でもです、けど人は助かる。この方の所では人が助かっておると教祖が仰られる様にな。私のお取次させて頂いてのおかげと云う物は、何とも云えん。それこそ日に月に、次第次第にその秋山さんの御礼お届ではないけれども、何とも云えん、それこそ味わいのおかげになって来る。
 そういうおかげを段々体験して行くから。秋永先生じゃないばってん、もう神様に委ね任せておると云う事はです、降る事もおかげ、照る事もおかげと何とも云えん。それこそ尾の身の様な、味わいの心の状態が開けて来る。ならその心の状態が次に進んだ時に、初めて自分だけの助かりではない人も助かっておると云われる様な助かりの力というか、いうならば本当の意味においての合楽示現活動にでも参画出来れるおかげが受けられて、又自分と同んなじ助かりを求め。
 又助かりをなさる方達が自分の周囲にも出来て来ると言う事になるのです。理屈の上では分かっておっても、それこそその問題に直面した途端におかげと思える心と云う事は、是は本当に神様の氏子であるという、親神様の懐にあるんだ。生きても心でも親神様の懐の中にあるんだと云う自覚が段々出来てき、強うなって来なければ、そこを又云うならばおかげと云う様な心の状態は開けない。
 理屈の上では解っておっても、其こそその問題に直面したとたんに、おかげとこう思えれる心と云う事はね、是は本当に私は神様の氏子であると云う、親神様の懐と云う物の中にあるんだと、生きても死んでも神様の懐の中にあるんだと云う、自覚が段々出来とき強ようなって来なければ、そこも又おかげと云う物が開けて来ない。理屈の上では神様の氏子としての、資格が出来て居る様にあるけれども。
 降ってもおかげ照っても有難い様なです心の状態が開けた時こそ、初めて親神様の氏子、いうならば神の氏子の関係と云う物を、本当に身を持って解った時だと云わなければなりません。理屈の上では解っておってもです、あゝそりゃ困ったのそりゃどうするのと云う様な時にはです、いくら理屈の上で解っておっても、まだ親神様を親神様と信じられない時と悟らして貰うて。
 愈々親子の情と云う物を、愈々深めて行かなければいけない。昨日安東さんがお道引きして見えた二度目のお参りの時でしたが、もう半年位なられる様な赤ちゃんを連れて見えてね。その顔半分が赤ぼやけなんです。もう可愛らしい赤ちゃんですけれども、もう真っ赤なぼやけが顔に出ておられるんです。その為に家に帰る事も出来ない。それが不安で心配でたまらんから、とうとう自分のお乳まで上がってしもうた。
 その難儀を見兼ねて安藤さん昨日その親子の方を親子三人ですだから、ね赤ちゃんともおばあさんと娘さんと、赤ちゃんと三人連れてお導きしてして参られました。それで此処でならほやけでおかげを受けた何人もの方達があるから、そういう例をまあ話さして頂いた。お神酒さんと御神水さん頂いて、まあ帰られましたんですけれどね。本当に親の思いと云う者はね、その名前がね和寿子さんと名前が付けちゃる。
 和寿子と云うのは平和の和です。そすと寿という字です。是が親の心情です。この娘がどうぞ一生幸せになる様にと云うて、和らぎ寿く子と命名した訳です。是はもう親の子供に対する愛情の表われなんですよあれは。ね。だから天地の親神様とてもやっぱり同じ事なんあです。氏子信心しておかげを受けてくれよと仰る。それなんです同じ意味なんです。だからその心に親の情に縋がる所からです。
 情感と云う物が交流するんです。親子の親子の秋永先生じゃないけれども、神前に座って願う事もなければ頼む事もない。じいっとこう交流しておるとこう言うわけなんです。親子の情感。云うならばもう親神様との間にそういう交流を見る時、もう初めてこういう仲で起きて来る事だから、普通でいうなら困った事であり忌まわしい事であるけれども、おかげとしてはぁそりゃおかげ頂いたのと云えると云う事なんです。
 ですから先ず親の心が本当に分かり、その親の心に添う事の精進を先ずはなさらなければ神の氏子としての、本当の意味においての自覚は出来ないと思う。なまじっかな医学が、なまじっかな云うならば法律の勉強がです、かえって自分自身も助からん所か人までも、参って来る信者氏子までもあられぬ方へ導いておると云う事が云えるでしょうか。やああっちの先生は親切、もう本当に弁護士の代わりまでしてやらしゃった。
 はぁあそこの先生は医学もなかなか勉強しちゃるけんで、こげな病気にゃ此処にこうせなぁせんなんと教えて頂いて、病院に入れる事ばっかり考えよるから本当の幸せは開けて来ないと言う事。なまじっか学問が所謂身を食う所ではなくて、人の身まで食う結果にさへなるのですから。はぁ金光様の信者たるもの又教師たる者、本当にこの辺の所をよくよく解らせて頂いてです、愈々有難くならして頂く稽古をせねばいけないと思うですね。
   どうぞ。